一月寺遺石/立砂・斗囿の墓【萬満寺】

一月寺遺石/立砂・斗囿の墓【萬満寺】

2020年2月22日

ここでは、松戸市指定有形文化財「一月寺遺石」と、俳諧人「立砂」「斗囿」の墓をご紹介します。

松戸市指定有形文化財「一月寺遺石」

旧小金宿にあった普化宗ふけしゅう一月寺いちげつじは、正嘉元(1257)年に金先禅師によって創建されたと伝えられているお寺です。
江戸時代には、青梅の鈴法寺、京都の明暗寺にならぶ普化宗の本山として隆盛をきわめていましたが、明治4(1871)年普化宗の廃止令によって廃寺となりました。

現在、萬満寺に一月寺の遺石が移管されているのは、江戸時代より萬満寺が一月寺と深く関わってきた縁によるものです。

案内板の横にある石碑は一月寺のものかわかりませんが、嘉永3(1850)年のものでした。

碑には「雖為骨肉同胞 不許無案内入」と刻まれています。

「骨肉の(血を分けた)同胞なりといえども、案内無く入ることを許さず」という意味です。

俳諧人 立砂・斗囿の墓

萬満寺には、東葛地域の俳諧人として有名だった馬橋の柏日庵立砂はくじつあんりゅうさと、その子・斗囿というのお墓があります。

立砂は、親子ほどの離れた年の差の小林一茶から「爺」と慕われ、彼のよき理解者であり、庇護者でもあったそうです。

また立砂の子・斗囿も、俳諧を通じて一茶と生涯にわたって深い親交を持ちました。

鍬かけて 長閑にしたる 榎かな(立砂)

山ぶきや 草にかくれて 又そよぐ(斗囿)

立砂は寛政11(1799)年、斗囿は天保4(1833)年に亡くなりました。


萬満寺には、上記以外にも複数の文化財があります。

松戸市の公式サイトにも解説がありますので、ぜひご覧ください。